理学と工学というわけ方
10月4日
私は工学部から理学系の専攻にきた.そのときにいろいろ周りの学生や先生方と出会い,学んでいくうちに感じたことがある.
私は,学術的な貢献というのは一般的に言われている理学の部分が大きいと思う.
しかしそれは,工学・理学というわけ方から思ったわけでは,全然,まったくない.
私が思ったこと,今から話すこの話のキーワードは
「巨人の肩に立つ」だ.
何か便利なものを作るということは,人々にとって役に立つことなので,企業も資金を出してくれ,研究費も貰える確率が高い.
真理が分かったからとて何十年か先に,もしかしたら人類の役に立つかもしれないけれど,大体の場合そうではない.そんな研究は,企業にとって自分たちの存続で精一杯の状態だとやはり,ニーズのあるものを..となるだろう.
そこで大学でそういった理学的なことを..となる.
そんな話はよく聞く.
そのようなわけ方はお金が絡むから生じるのではないか.
私たちにとって真理の巨人は複数いるのだろうか.
学問ごとにパーツがあったとしても,全体としては一人であるような気がする.
真理の巨人はそれくらい大きいような気がする.
工学で何かものを作るためには理論がわかっていない場合,良いものはなかなかできないだろう.
とくに,電気分野であれば数学や物理学に学ぶことが多いと思う(私はもっと勉強しなければいけないです).
しかし,ではその物理学はどうやって発展するか.
例えば見えないものが見えないままだと,私たちはそれ以上何かわかるだろうか.
そこで,顕微鏡ができ,望遠鏡ができ,そしてまあ,兵庫の場合,Spring-8ができる.
便利な計測器ができることで,理論が分かることもある.
そして,わかった理論に基づき,また製品が進化する.
このサイクルにはまさに,巨人の肩に立っていることを実感させられる.
きっと,私たちが分けられないような,大きな肩の上にきっと私たちは生きているんだなあと感じた.
これは一人の学生,ちっぽけな細胞の一部のちいさな悩みである.
大きな巨人のどの部分に自分がいるか,知っていて損はないだろうが,違う部分を否定すると,結局自分が属する大いなる巨人の一部を責めるという矛盾になるのではないか,否定という言葉は恐ろしい.
そんな風に思い,雨のなか,コンピュータを抱えてバスに乗る.
*1:この話はフィクションです