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肺炎 書き留めていくこと 体温について

私が肺炎と診断されて,本日2015年10月20日で一週間となった.

 

書きたいことはいろいろあるが,私の性格上,時系列でお話ししたいという気持ちと,それに対して,ああ,哀しい哉,日々どんどん記憶からぬけおちていく記憶を,まとまりもなくとも書き留めておかねばという焦りとがせめぎ合っている.

 

まず,熱について記録しておきたい.

2015年

10月11日 38.7度  夕方発熱 夜間の救急病院に行く

10月12日 39.5度  一日中家で熱と戦う.夜の間は40.3度まで熱が上がる

10月13日 39.9度  朝保健センターに行き,意識消失.点滴,薬を投与

10月14日 39.5度  息苦しさがましになり点滴の効果を実感.気道を広げる薬が効

          いたようだ.依然として,熱はある.点滴投与続行

10月15日 38.5度  最後の点滴.レントゲンでは,ほんの少し影が小さくなった.

10月16日 37.7度  案外しつこい熱だが,薬が切れるとふわっと熱が上がり,しん

          どくなるのを実感する.私の場合,きっかり5時間半で薬の効

          果が切れるようだ.本が読めるようになった.食欲は皆無.ネ

          ギトロ巻を2切れ食べられたことに満足した.

10月17日 36.9度  ここまでくると,後は咳と息苦しさとだけだと思えてくる.コン

          ビニで自分でお昼ご飯を選ぶために車から降り,すこし歩くこと

          はできるようになったが,すぐに息切れを起こし,その日の自主

          リハビリは終わった.痰が減ってきた.

10月18日 36.7度  座って数時間過ごせるようになった.

10月19日 データなし もう計らなくてもないだろうと思えるくらい回復した.病院

          の診察で肺のレントゲンの左右差は目視では確認できないほど

          に回復した.しかし,左背中を叩かれると咳は出る.

10月20日 36.9度  お昼の一番元気な時間帯に測ったら微妙な値だ.昨日と体調に大

          差はなく,おそらく昨日もこれくらいの体温だったと推察さ

          れる.相変わらず,息苦しく,苦しさで今朝も4時に目覚めたが

          眠れるようになった.マクドナルドのハンバーガーを食べる夢

          をみた.食欲は一食カステラ巻一つ分くらいに回復した.

10月21日 37.7度  薬の種類が減って,少ししんどい.気道を広げる薬は飲んでい

          るが,だるさをとるものはなくなったせいのようだ.ホットケ

          ーキを完食.

肺炎 食べられるもの 1結論から

まず,今緊急に肺炎になったとき,食欲不振になったときに食べられるものについて知りたい方のために,結論から言う.

 

1位 アクエリアスポカリスエット(水で2倍に薄めたもの)

2位 シャーベット(ライチ&レモン味)

3位 ネギトロ

4位 夢に出てきたもの

 

だ.

しんどいみなさん,辛いと思うけれど私はこれ以外本当に食べられなかった.これ以外の食べ物を思い浮かべると胸がうぷっというか,ぐえっというかそんな感じになる.食べたくない気持ちは非常にわかるが,頑張れば食べられるかもしれないから騙すつもりなんかないけれども騙されたと思って試してみてほしい.もし,食べ物の夢を見たのであれば,それに関してはたとえ覚醒時に思い浮かべて,ぐえっとなっても可能性がある.私はそうだった.

そして,看護をしていて,患者に食べ物を食べてもらいたいのに食べてもらえなくて心配なみなさん,しんどいその人に変わってお礼をいいます,ありがとう.優しさに感謝します.その人が食べられるかもしれないから,上の食べ物を一度聞いてみてあげてください.

 

後からまた違う病気になったときに(後日UPします),看護師さんに言われたのですが,生ものは肝臓に負担がかかるから本当はもっと消化の良いものを食べるほうがいいとのことです.

なので,あまり生ものはお勧めはできませんが,食欲のないときは,その人が食べたいと思ったものしか食べられないと思うので,食べたいと思えるもの,想像して気持ち悪くならないものを探すことからはじめるのがいいかもしれません.

 

 なぜこの結論に至ったかはまた違う回に書くつもりです.(つづく)

肺炎 2/2 病院に運ばれてから

【肺炎になりました(後編)】

長いので,めんどくさい方は写真だけお楽しみください.

 

救急車の中から見えた空は,超快晴だった.運動会は,こんな日にしたい,と思う.

しかし私は,ガラガラと運ばれていた.想像以上に振動は伝わってくる.私の気分と同じ色を空がするとすれば,実家の近くにあるどぶ色だろう.担架から見上げるすがすがしい空はいつもよりもっと,とても大きな球面を内側から見ているように広かった.

もう自分で歩かなくてよいと思ったとたん,この呑気さである.

 

そして,救急車でくねくねと運ばれた病院で,私は入ってすぐの救急処置室に運ばれた.そこにいたのは2人の看護師さんで,あとから病院の先生も来た.前回のときとは違う先生だった.たんぽぽみたいなおじさんで,優しそうな人でよかった.

そして血液を採られるらしい,看護師さんがちくっとしますよ,ごめんなさいね,といった.看護師さん,全然大丈夫,このしんどさが解消されるのであれば,ちくっくらい笑って我慢できる.ぐさっと刺されたって我慢できる.それくらいのしんどさだった.

熱を測ると36.7度だった.私は「ちがうんです先生,さっき保健センターで測ったら39.5度あったんです」っといいたかった.しんどいんです,たすけてください,と.

しかし,冷静に考えて,汗とはすごいと思った.倒れて汗びっしょりになったことで3度も熱を下げられるということが,この命をかけた実験からわかりました.

そして,先生は検査をします,と言った.そのときのセリフはこうだ.

「たぶん気管支炎とか肺炎だと思うけれど,ほかの可能性を否定するために検査をします」

これを,優しいたんぽぽのように私の目をみて言った.私は,この先生は信頼できると思った.根拠はこうだ.私はその先生は私にきちんと証拠を見せてくれる,そのうえで自分の仮説が正しかったと教えてくれるつもりだということがわかった.そして,上に書いた先生のセリフは,そういう風に患者に説明すると安心するというところまでわかって言っている,と伝わってくるものだった.

そして,レントゲンを撮りにいった.そこまでベッドでごろごろ運んでくれるから楽ちんだ.しかし,病院の廊下を20代の若者が移動式ベッドで運ばれていくのだ,当然「この子,どうしたんだろう,まだ若いのにこんなに死にかかって..」みたいな目で,たくさんの人に見られた.こんな光景はテレビでしか見たことがないからな私も.と思いながら,ちょっと照れてマスクの下でにやにやしてしまった.しかし,にやにやがばれたら,元気そうだから自分で歩けといわれそうで,そこまではまだできないと思って,ばれないようにこらえていた.

レントゲン室では,立った状態で大きく息を吸って,止めた状態を5秒ほどキープしないといけなかったが,キープしてる間にまた気絶しそうになって―――,危ない危ない,意識を失わず,ちゃんとリアルワールドに存在し続けることができた.

そして,先ほどの処置室に帰ってきて,インフルエンザの検査の結果,陰性であることがわかった.こんなしんどいのに,と思った.

インフルでないとわかり,私は点滴につながれた状態で,ベッドのまま点滴室に移って検査の結果を待つこととなった.さっきのレントゲンの道のりを今度は+点滴(+付き添ってきた災難な友人S)で遠めの点滴室まで移動した.またみんなに見られたが,いろんなおばあちゃんに,私の今までの人生を,ずっと病弱で寝たきりで過ごしてきたみたいなのを想像しているような,かわいそうな目で見られたので,声かけてくれないかなとちょっと期待したけれど,声をかけて応援してくれる人はいなかった.みんななりに,いろいろ気を使ってくれたんだと思う.

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精一杯頑張って座ったときの様子がこれだ.なんて顔だ.いや,頭もひどいが.

そして,やってきたたんぽぽの先生に肺炎です.といわれたので,私は一瞬頭の中が真っ白になった.・・実際に真っ白なのは肺だが.

先生の診断だと,たぶんマイコプラズマ肺炎だと思っているが,検査の結果が出るのに時間がかかるらしい.普通,歩けて,話ができて,意識がある場合,入院はできないらしいが,私は3日間の入院を勧められた.しかし,ルームシェアをしているSが,家で面倒をみてくれるというので,お金のことも心配だったし,その言葉もうれしかったので,先生に,帰ります.と言った.(しかし,のちに後悔しかけることになるなんて,考えもしなかった)

点滴が終わると先生の診察室まで車いすで行くことになっていた.点滴をしているとトイレに行きたくなる.無理もないと思った,血液中に液体を500mⅬもいれるのだから.トイレは車いすで行った.車いすがなければ,はいはいすらできなかっただろう.この時私は,自分が障害者用トイレしか使えないという状況にはじめて陥った.これからは本当に必要な人が使えるようにしなければ,と心に誓った.

このときほど車いすに感謝したことはない.後でホームセンターを確認したところ,17000円とのことだったので,購入を検討したいと本気で思っている.一家に一台.

さて,点滴も終わったので,先生の診察を受ける前にもう一度今度は歩いてトイレに行った(スピードは相変わらずアリレベルだ)とき,トイレから診察室への20mの最初の1メートルで気分が悪くなった.ふわっとしたたちくらみのようなやわらかな意識の遠のきを感じた.そして,トイレ前の長いすで,無様にも倒れこんだ.友人Sは看護師さんを呼びに行ってくれていたので,私は一人で長いすにへばりついて待っていた.いろんな人にじろじろ見られたが,誰も声をかけてはくれなかった.その件に関しては,声をかけてもらいたかったから,一人で倒れている人を見かけたら私は声をかけようと思った.車いすと共に看護師さんが表れた.こうして診察室前までまた車いすで戻り,そのまま待つ.

しかし,また気分が悪くなった.今すぐに横にならないとこの黄色い大理石のようなつめたい病院の床にぶっ倒れると思った私は,これ以上ないくらいにふんぞり返るような格好になり,車いすの上でできるだけ頭を低くした.私は生きるのに必死だったが,一緒にいたSは私のそのなりふり構わぬ行動は恥ずかしかっただろう.そして,ひとりスペードのキングよりもえらそうな,しかし気品などかけらもない格好で私が車いすに乗っていることに人々が気づき,だんだん目立ってきて,しんどすぎて寝ころばないと地べたに倒れてしまうと思ってSに頼み,また点滴室のベッドに戻った.

診察してくれるはずだったたんぽぽの先生がベッドまで来てくれた.たぶん,何も食べれてないのが原因だという.血圧がすごく低い,だって脈がほとんどふれないんだもん.と私の手首を持ちながらいった.思い返せば最後にちゃんと食べたのは3日前の最後の焼肉だった.血糖値が上がらんのだな,と思った.最後にとても栄養のありそうなものを食べた幸運に感謝した.

そして,代わりに診察結果をSにきいてもらい,私は左肺がマイコプラズマ肺炎らしいということを知った.そんな報告をするSは「第一位は...!」というような結果発表のように楽しそうだった,私は自分が重病なのかちょっとどきどきしながら,もったいぶらずにはやくとどめをさしてくれ,と思っていた.

 周囲の看護師の方にも入院を勧められる中,私は帰ると言ってきかなかった.人間,決意をもって臨めばなんとかなるものだ,その証拠に私は家まで帰り着いた.偉そうに言ったが,大変人に助けてもらった結果である.受付まで看護師さんに車いすで送ってもらい,車から家までSに手をかしてもらった.そして,どうにか帰り着いた私は,そのままほろほろとほどける砂丘のお菓子のように眠りについた.

 そのあと大学の先生にお騒がせしました,と生存のメッセージを入れたのだが,まだどうやら朦朧といたらしく,「マイクロスコピック肺炎だそうです」と送ったところで,「いや,マイクロプラズマだったかもしれません」と送りなおした.どっちもまちがっている.正解はマイコプラズマでした.知っている研究室にメゾスコピック研究室というのがあるから,その辺とごちゃっと混ざったのだろう.

しっかりもののSはわかった時点で大学の先生に報告をしていたらしく,今思えば,私のはちゃめちゃな報告の間違いは先生もわかっているに違いなかったが,そのときはSさんがいてよかったね,というのみでそっとしておいてくださった.

3日間点滴をうけ,3日目の診察で先生にマイコプラズマの値が低いから違うかもしれない.痰の検査結果から来週わかるだろうということを教えてもらった.この間,熱は38.5度くらいに下がった.とても楽になった.普通ならしんどいだろうが,この時の私には平熱に戻ったように感じた.

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 17日になって,熱はやっと下がってきたが,ちなみにご飯は全然食べられない.人生ではじめて食欲不振に陥った.ノロでもちょっと経てば食べられるのに今回は厳しい.おなかは鳴っているので減っていると激しく主張しているが,おそらく,気道が狭くなってしまっていて,喉までおなかいっぱいのようなこの感覚のせいで,食べ物がほしくないのではないかと自己分析している.18日になって,やっとご飯を,頑張れば平常時の半分くらい食べられるようになった.食べなくても生きていけそうな気持ちだけれど,鬼の命の恩人Sが食べないと怒るし,心配するので頑張って食べている.

 

今回,病気になって思ったことがある.車いすに乗っていたりしている人は,見た目より今ものすごくしんどい体調なのかもしれないと想像するようになったこともその一つである.歩けるようになってからも点滴中にトイレにいくと

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 こんな感じの命のスタンドと共に歩くことになるのだが,これは普通のトイレの天井に当たってしまい.結局障害者用のトイレしか使えなかった.やはり,体調がすぐれないなども含め,すぐに必要としている人のためにできるだけ空けておいた方がよいと思った.元気ならトイレを少しくらい我慢できるが,しんどい時に立ったままトイレを我慢するは,トイレの我慢より「立ったまま」がしんどい.だから,すぐに入らせてあげたい.

あとは,このスタンドと共にしかも体調がすぐれない状態で歩くと,回り道をするのがしんどい.だから私は,今は自分がこの状況だけれども,こんな人を見かけたら道をあけて最短で行けるようにしてあげたいと思った.肺炎時の私の5mは,普段の強靭な私に換算すると42.195㎞ほどに相当する.これは大げさではなく大真面目である.誰の目を見ても言える.勇気を出さないと到達できない距離でした.

そして,最後の一つ.病気の断定は難しいのだから,お医者さんの推定結果を待って,その結果が違ったときに怒る人間になるのではなく,自分なりにこの病気だったらこういう症状になるはずだ,という仮説をもって先生と証拠を探そうと思うようになった.その理由は,最初に先生に痰の色をきかれたとき,どのスケールで答えればよいのかが分からなかったからだ.たとえば緑と白くらいの大きな違いをきいているのか,微細な違いをきかれているのかということがわからず,緑というには黄みがかった自分の痰を思い出しながら,自分のは黄緑色かな?などと迷い,まごまごしながら緑色です,と答えた.マイコプラズマは高熱が出た私の現在の症状にもっとも近いような気がするが白色の痰が特徴的という点で,暗黒の緑の痰を口からはける私と微妙に違う.自分で考えてもわからないのに,人が間違ったから怒るよりは,よりその先生が求めているスケールの応えを返す努力をする方が建設的だと思った.

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まだ,肺炎は治っていません,と16日の診断でぐっさーっと先生にたんぽぽの剣で刺されたが,刺されたって平気さ,それくらい耐えられると救急処置室で誓ったもの.まだほかにできることがないから,3日間のこの経験を一生忘れないようにここに記すことにした.

毎日5種類ずつ薬を,私と同じく粉薬がとても嫌いな誰かが発明したオブラートに包んでのんでいる.よく効くが,ぐぇっと苦いこの薬とおさらばできる日が早く来るといい.

そして,私を助けてくれたすべての人にありがとうと心をこめて言いたいと思います.

2015.10.18 (sun)

肺炎 1/2 病院に運ばれるまで

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【肺炎になりました】

時系列で話しますが,長いので,めんどくさい方は写真だけお楽しみください.

10月4日(日)くらいから風邪症状がでました.それから何日かしんどい状態が続きましたが,後々体験する出来事を考えると,このころのしんどさなんて,髪の毛を一本抜くくらいのものです.


10月11(日)にお昼ご飯に焼肉を食べるくらい元気だったのに,夕方から熱が39度に上がりました.試験の前日にもかかわらず,深夜0時に友達に病院に連れて行ってもらいました.インフルの検査は熱が出てから,24時間たたないとうまくいかないので,今は市販の薬を飲んでくださいといわれました.

10月12日(月) 世間は3連休なのですが,私は家で熱が下がらずルームシェアの友達の試験が終わるまで,一人でじっとしていました.食べ物は絶対に食べられない自信がありました.アクエリアスを作り出してくれた人に感謝していました.しんどくて本も読めないので考え事以外できませんでした.熱は39.5度でした.

10月13日(火) まず,火曜日は通常,私の中では,気分的には朝から始まるはずですが,このころ高熱の私は,永遠に続く苦しい月曜日の夕方みたいな気分でした.0時から息が苦しすぎて,何度も体の向きを変えていました.恐ろしい緑色の痰がでていました.息が苦しいので,一生懸命呼吸に集中しなければ呼吸ができず,結局,15分ほどうとうとして,その日は起きました.熱は39.9度でした.

ここから激動の一日でした.あまりに熱が下がらないので,大学の保健センターに連れて行ってもらいました.ありがとう.私の命の恩人.でも,アリにも勝てないほどの体力なので,車で座っていてもしんどかった,正直動きたくなかったし,救急病院に行ったときに動く体力と気力を全部使ってしまったんだ.行きたくなかったけど,鬼の命の恩人に怒られたのでついて行きました.

保健センターにつきました.診察表も自分では書けないと思いました.苦しくて下を向きたくない.私の前と後には,一人ずつ留学生の方が,順番待ちをしていました.私が診察を受けている間に私の恩人Sは,私の書類提出などを代わりにやってくれていました.

 診察室では,私はインフルの検査をしてもらいたかったけど,インフルっぽくなく症状的には風邪をこじらせたような感じだったらしい.少し肺炎を疑ってレントゲンがここではとれないから正確にはわからないけどと付け加え,抗生剤を出してくれることになりました.私は,先生にお礼を言い,立ち上がったが直後に気分が悪くなった.おそらく熱40度のまま動いたりする限界が来たのだ.「すみません,気分が悪くなってしまいました..」先生は休んでいき,とベッドを用意してくれるようだったが私は立ち上がって2秒以内に意識を消失した.

「大西さん!!大丈夫ですか?!!聞こえますか?!!!」

・・・ぱちっ.あ,倒れたのか.ここはさっきの診察室のベットか.でも寝ころんだ覚えがない.この女の先生が力持ちなのか,自らベッドめがけて倒れたのか.

 

そんなことを考えていたら,先生は救急車を呼んだ方がいいと言いだした.

 そしててんやわんやで受付してくれた人とか4人ほどの看護人に見守られながら,私は救急隊員の方と恩人であり友達のSとともに救急車に乗ることとなった.看護師と思われる人もさっきみたときはおっとりしていたけど,倒れてからは,体からアドレナリンが出たように,ものすごくてきぱきと,しかし優しく私の汗を拭いたり血圧を測ったりしてくれた.私は救急隊の方と先生のやりとりからできるだけ状況を把握しようとした.どうも1分弱ほど意識がどこかにとんでいたらしい.意識が戻った時に気がついたが汗びっしょりだ.そしてそれが冷えて少し楽になった.みんなに囲まれて安心している様子を先生は傾眠傾向にあると称していた.たぶん,意識朦朧みたいな意味だろうと後に思った.

救急隊の方々は体格の良い2人の男の人で,救急車は保健センターの前にとめられ,私は車輪のついたベッドで運んでもらった.その時の記憶は鮮明に覚えていて,「ああ,これでもう歩かなくてもいいんだ..」と思った.

しかし,いつのまにか戻ってきて思わぬハプニングに巻き込まれた友人Sの声で「病院から帰りはどうしたらいいでしょうか,自分で帰ってこれるように車でついて行っていいですか」と聞こえた.ああ,S戻ってきたのか.なんかごめん.倒れてしまった.そして,そんな私をみてもあなたは冷静だな,慌てないの?と思った.

 

そのまま救急車に乗せられ,まず診察室で倒れたときのように血圧を図り心拍をとるなどした.止まったままの時間は長かったが,つらくはなかった.倒れるまでが一番つらかった.意識障害,頭の様子をみるため,手を挙げて目をつぶったり隊員の指を見たりした.そうこうしている間に,私の搬送先は先日救急でおとずれた同じ病院に決まった.アレルギーをきかれ,ハウスダストとめんたいこです.といったら,隊員の人がふっと笑顔になり,おいしいのに,といった.私は,笑ってもらえたことがうれしくて,マスクの下で精一杯笑顔をつくった.明太子アレルギーは,真剣な場面でも笑ってもらえて意外に役に立っている.

結局Sは,私と共に救急車に乗ってくれたようだ.私は,きっと驚いただろうなあと思った.悪いなぁと思っていると,隊員の人が目を離したすきに,Sは「はしれ~はしれ~はたらくくるーまー!」と口ずさんでいた.なんだこいつ,わくわくしてるじゃないか.

そして,救急車の中にはいろいろかっこいい機器がおいてあって,目を閉じておくのがもったいないと思い頑張ってきょろきょろした.窓から少しだけ空が見え,街路樹の樹幹の内側がちらっと移り変わる様子から,わりと法定速度で進んでいることがわかった.救急車の中で私は,風邪で次の順番に並んでいた留学生の人に長い間待たせた上に,搬送までされて驚かせてしまって悪かったなあと思っていた. (次回につづく)

 

モルモット

久しぶりの更新になりました.

 

きょうは,とってもかわいいモルモットのもるりんについて.

ぺルビアンモルモットです.

色は,ホワイト×クリーム×オレンジ

 

ちょっとおバカだけどそれもこみでとてもかわいいです.

エサを囲いの上においたりして,日々芸を仕込んでいます.

私が近づくとエサをさがして上を向きます.

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過疎

私は,兵庫県のとあるちいさな町で育った.

両親の住む実家もあったが,

その町には私を可愛がってくれる祖父母が住んでいて,学校が終わったらずっと祖父母宅にいた.

 

そこには私が知らなくても

「あらあ,おっきなったねえ」

と言ってくるおじいちゃんおばあちゃんがいっぱいいる.

今でもおっきなったねえと言われるけど,知ってた人はちょっとずつ少なくなっている.

自分自身も今関東にいて,祖父母がこの春は両方とも入院しているのでその町の我がふるさとは随分寂しい状態だと思う.

昔,そんな状況になりかけた時はどうして私の両親は面倒を見てあげないのとか思ったこともあったけれど.今はそのことを思わなくなった.理解している.それは寂しい意味ではなくて,自分でなんとかしたいなという方向に変わりつつあるからだと思う.

理解したのは私の母は,私が知らない田舎の大変さがわかっているんだということ.多分田舎にいたときから都会の雰囲気に憧れがあって,今やっとそれが叶ったので,その生活を手放すことを考えたくないのだ.

田舎で幸せに,しかし社会ともしっかりと関わって生きることはできないのだろうか.

技術の発達した今だからこそ,そういうことが支援できるのではないか.

別に田舎だけに閉じこもる必要もないし.

自分にとって大事なものを手ばなさないようにというか,誰でも手放したくはないと思うのですが,

手放さなくてもすむような,そんな世の中をつくっていきたいです.